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MELANKAORI TRANSIT 2020

1991

湾岸戦争勃発の翌日、御茶ノ水にある順天堂大学医学部付属順天堂医院で生まれる。 病室の扉にかかれていたネコ科の動物の絵を気に入っていてそれが私が覚えている限りの最古の記憶だ。3 歳~4歳の時に 3cm 四方にちぎった紙切れにネコ科の動物を描き、護符のようにして持ち歩いていたが、母の自転車に乗せられて八百屋にいく途中無くしてしまい、家族総出で半日かけて探したが見つからなかった。 

19921993

父母と離れ、江戸川区小岩で蛇と縁がある名前の江戸っ子の祖父に育てられる。祖先に火消しだったが悪事を働き団子屋になった商人がいる。祖母は弘子という弘法大師に因んだ名前を持つ人で、密教家系であったが、小さい頃は茨城県神栖にて狩猟と窃盗の中間のようなことをして生計を立てていたらしい。兄が山へ、祖母が海へいったらしい。

19941995

神奈川県平塚市にある、園児よりもうさぎの数が多い幼稚園に入る。園長のウサ子先生といった。(占い師から改名するように言われたらしくそう名乗っていた)私は大半の時間をうさぎと過ごすことになる。母は「初めてできた友達って紹介されたのがうさぎだったからびっくりしたよ~二人目の友達もうさぎだったね~」と回想する。当時は無口だったので(うさぎが友達だったからだろう)あまり園児と仲良くなれなかったが同級生で初めて藤圭子似の友達ができる。幼稚園のバザーで初めて作品を作る。寒い冬の日だったので、小さな気に毛糸とボタンをくっつけ「焚き火」というタイトルをつけた。晴れた日は多くの園児が校庭にあるコンクリートでできた山をお尻で滑ったりして遊んでいた。そのため制服のお尻の部分は各家庭で補強するために好みのワッペンを貼るという文化があった。ここの幼稚園には、おままごとセットやドールハウス、積み木といった主流の玩具はなく、その代わりに家庭から寄付された調理器具や工具などが無造作に置かれていたのでそれらで遊んだ。私は、シャモジとザルを用いて園内の砂をサラサラにすることに熱中していた

1996

小学校入学。レクリエーションでモモンガ型の凧を作る。近所の家を訪れては「どちら 様ですか?」とドアを叩き回っていた。近所の人がお菓子をくれた。中でも特別警備保障の女社長さんがくれる謎のジュースが好きだった。遠足の日なんかは必ず警備保障さんの事務所によってそのジュースをもらっていた。近所のピザ屋の女社長さんはwavyな若者を率いていた。私にジンジャエールとピザ生地にチーズと塩をまぶしたスティック状のお菓子をくれてそれがとても好きだった。のちにそのスティックはクレージブレッドというものだったと知る。はじめて近しい大人たちの保護なしで知らない大人たちと話す緊張感の味にふさわしいものだった。

1997

担任の先生からクラスで流行っていたオカルトクラブの解体を頼まれた。その時期、バーミヤンのドリンクバーから着想を得た友情をテーマにした脚本を書き、放課後オーディションを始める。 登場人物は全て飲料水 のスピリッツだった。

1998

死を悟る機会が2度あったため、儀式めいた行い。例えば決まった色のコップでしか飲み物を飲まない、ヘアピンを20本以上頭にさして学校に行く、8回歯ぎしりする間に行う寝る前の儀式など。数字を怖がり、算数の勉強をしなくなる。好きだった漫画や本なども読まなくなる。 赤色を嫌い持ち物のハローキティのリボンを片っ端から黒いマッキーで塗りつぶす。

1999

新任の音楽の先生と仲良くなり、鉄琴を習う。1年の任期がすぎて先生が学校を去った後も、文通をする。この頃、文通に目覚め、数十人と手紙のやりとりを行う。

2000

箱根駅伝に影響され、友人と毎朝2km、毎夕2km走り込みをする。順天堂大学の3000mSCの岩水選手を尊敬していた。友人(藤圭子似)との 演劇も継続して作り発表している。オーディションなどを経て人数が増え、劇団を結成するに至るがクラス替えにより解散。

2001

クラス替えにより仲良くなった友人とプールに通い、仲良くなった監視バイトのお姉さんと、お兄さん2人(「金髪」と「焼きそば」と呼んでいた)一緒に遊んだ夏休み。近所に野良猫が住み着き、ベビーラッシュ。猫達に花や果実の名前をつけ可愛がる。この頃猫の血統に興味を持ち、150 近く の血統を暗記する。その過程で暗記術が芽生える。

2002

毎週末は母に連れられ家族で外出をしていたが、その中でもよく訪れた横浜の山手が好きで、特に外国人墓地がとても気に入り、将来はここに入りたいと心に決めたが、母にクリス チャンにならないとダメだよと言われ、教会に通わせてとせがむ。修道女になることを目標とするが、母からクリスチャンになっても外国人墓地は外国人じゃないからはいれないよと言われ絶 望する。非行の道へと導かれる

2003

 

2004

実話ナックルズ、チャンプロード、カスタムローライディングなどの雑誌を愛読していた中学2年の夏に、ひょんなことから市の代表としてアメリカのカンザス州に派遣され、 ホームステイをする。カンザスで見知らぬ家族と生活をするという経験によって好奇心が芽生え、帰国後はアウトローな先輩との付き合いと並行して友人の父がやっている屋根裏の塾に出入りするようになる。

2005

友人の父の屋根裏塾のおかげで偏差値が上昇する。ダンススクールに通いブレイクダンスを習い始める。

2006

神奈川県の SELHi 指定校である帰国子女がほとんどの高校の貿易外語科に進学し、ド イツ語を専攻する。 中3から高1にかけては青い髪がトレードマークだった。前髪をブレイズ(編み込み)にしていて、私の髪色がわるたびに物理の先生が私の髪型をテーマに作った和歌を読んでくれた。メキシコ系アメリカ人の文化に関心を抱き週末の交流会が楽しみで仕方なかった。 MySpaceなどのSNSを通じてメキシコ系アメリカ人のギャングスタと知り合う。

2007 

暗記術に精通していたため日本史や世界史は得意だったが、数学は0点ばかりだった。 しかし、白紙で答案を出したことはなく、なんとか自分の知識から回答を試みていた。例えば、 関数では遊牧民族の人相を表現したグラフを書いていた。 英語や専攻のドイツ語では直観に頼らざるをえなかった。 この時に、何かしらの能力が顕著に現れ始めた。メキシコ系アメリカ人のギャングスタが好んで 使う出会いと別れの文句や、カンザスの爺さんがよく使う感嘆詞、ヘミングウェイの原文から引用して作った定型文などをネイティブの先生に提供することで授業時間を無駄にしないよう努めた。不真面目な学生だったのだが、司書さんと仲良くなり図書館に通い始めて、日々の罪滅ぼしのためか横浜中央図書館の人文科学コーナーの本棚にある本をとりあえす全て手に取るという目標をたて、実行した。特にプロティノスやスピノザの本が面白くてなんども借りて読んだ。

2008

高校の授業のリサーチの一貫で心理学部の教授をしている先生と知り合う。臨床心理士 を目指し、3つの大学に出入りするようになるが横浜中央図書館で受験に関する受難を受ける。 タイの帰国子女の友人に誘われてフラメンコ部に入る。

2009

受験対策の帰りがけにチェ・ゲバラの 映画を観て、その足で関内をうろつき、東京藝大の先端芸術表現科の展覧会の前を通る。展示を 見ると時計を使ったインスタレーションにとても興味を抱き、その時に、直感で浪人し芸大を受験することを決意する。両親に伝えたところ、父親に「実は、お前が小さい頃に、上野の博物館のクジラの大模型の前で芸大に通うことを予言していたんだが、覚えていない ?」と言われ、浪人生活が始まる。自分が誕生した病院の対面に位置する美術予備校に通うこ とになる。高校の卒業認定のための英語の essay は「Mr.M(担任)は本当に存在してい るのか」という essay を信頼していたイギリスの帰国子女のガンタムマニアの女の子に英訳してもらい、それに「ロバは死なない」というタイトルの自由意志を否定する趣旨の詩を添えてなんとか卒業できた。卒業文集はゲーデル暗号で数行のみ書いたため、編集係にバグだと認識され削除されてしまったらしく、出席番号が私の次の合唱部で生徒会の娘の文章が私のページにきており、合唱の素晴らしさと恩師への感謝を述べた文章になってしまった。

2010

美術予備校に通い始める。初めての小論文は「気高い精神の理想像について」というタイトルで、当時私は横浜にあるタワーを訪れるときの心情について書いた。初めての作品は時間についてホワイトボードを用いた講義形式で行い、それは簡単にいうとニュートン批判だった。「ニュートンは大事っすよ」と言う先生と「hiphop だね」 と言う先生がいた。 芸大の二次試験の面接で「美術に興味はありますか?」と訊ねられ、反射的に「別に」と答えてしまった。なんでそんなことを思ってもいないのに答えてしまったのか、謎だった。

2011

前年の「別に」事件により、さらに1年間浪人生活を送ることとなった。なぜか、 この時私は学力の向上という目標を立てており、学科の勉強に励んだ。結果的に偏差値を 40 近く上げた。これは 2005 年と似たような動きだった。面接では「アーティストではなくセラピスト志望であるが、ここに来ることが最善の道だと確信している」ということを話し、進学が決まった。 2010 年~2011 年から黒い服しか着ない生活が始まった

2012

木幡先生のゼミで知り合ったポーランドから来た人達と宮城の人達との交流をきっかけに「メラン」と名乗り始める。 

2013

不眠症も徹夜をするという態度で生きていくと決めて4つの仕事を朝から夜までこなす生活を続ける。古美術研究旅行で助手さんの推薦で幹事となる。この仕事が大学で一番頑張ったことだった。

2014

そういえば、うちは父方も母方も密教家系だったなと気づく。ポテトチップスの袋の銀面に何らかのヴィジョンをみて以来、裏面が銀面になっているお菓子や冷凍食品の袋などをゴミ箱に捨てられず収集するようになる。それらで曼荼羅や鏡を作ることを決意する。

2015

大学卒業後の進路について考え、修道女になることを諦めきれずまずは庭師や清掃員 として働こうと函館のトラピスチヌ修道院の近所に引っ越すことを企てる。北海道旅行のパンフ レットを見ていると帯広のエゾモモンガに魅了されてしまいモモンガの飼育員になることを思いつき、獣医学校に通 う友人の人脈に頼る。ゼミの先生になだめられ、結果的に、美術の道に行くことを決断し大学院へ進学する。

2016

弾丸で広島と LA ヘ展示を観に行き、初めて展示で感動体験をし影響を受ける。広島の大願寺で弁財天様のご利益を受ける。その時買った蛇の指輪をずっと身につけている。何度か無くしたが、必ず見つかっている。しかし、LA で落とした呪術図や呪いの文句が書かれたノート ブックは見つからなかった。占い師になるように人から言われる。献血センターで占い師に同業 者と勘違いされ警戒される。9才の頃につけていた2021年までのスケジュール帳によると2017年あたりから占いをするということを自分で占っていた。ゼミの遠征で名古屋にいった際に、友人が落武者の呪縛霊を千体つけていると霊媒師に言われてしまったらしく、霊媒師に対抗するかたちで私の占いは始まった。武士クラスの霊は400年で成仏するとされているので、新幹線にのったときに成仏しかけの関ヶ原の戦いの落武者が彼女のところへ集まったのかもしれないが、それは深刻なことではないと伝えた。その出来事をきっかけに彼女と会うたびに占いをするようになる。延長で飲み会や結婚式の二次会などで自然発生的に占いをするようになる。

2017

美術に関わることを決意して一年が始まる。和歌山のアートプロジェクトで滞在制作を行う。そのプロジェクトの一貫でJRきのくに線で白浜から新宮まで往復する間に占いをする運びとなる。これが初めて私が公的に行った占いだった。朝9:30頃白浜を出て新宮で折り返し夜7:00に白浜に戻るまでの列車で私はずっと占いをした。予想もしていなかったが、古文のプロ講師に採用され本職とする。守護星土星が山羊座へ入宮。2008 年以来冥王星も山羊座にある。2020 年に 起きるトリプルコンジャンクションという時代の節目を跳躍した後の 2021 年が私にとって大切な年だと捉える。年末に友人の今井さんと教え子の上田さんとカラオケをした時に、不思議なことが起きる。後から『枕草子』(松の木立高き所の)を古文講師の仕事で読んだ時に、あのカラオケでの体験は現代版の調伏のように思えた。

2018

土星プロレスと称した占いが始まる。メランカオリは相変わらず活動的ではなく観想的な人物である。トリプルグレートコンジャンクションという天体のイベントを節目ととらえ独自の占いに基づいた活動をする。アーティストステイトメントで自分を動物園の中にいる野良猫に喩える。この頃から主体性を持って作品を作ることはなくなり、占いをしながら作品が出来上がるようになるが、動物園の中にいるカラスのような人たちの手をかりて制作と発表を行う。

2019

天王星が移動する頃に出会った双子座の人と一緒に展覧会を企画する。その展覧会の実現に向けて占いによって集まった人たちと冬至に城南島海浜公園でピザを食べながら近い未来のことなどを話す。この集まりをひらくために何度か臨海地区を双子座の人と歩いた。空を横切る飛行機や野鳥をよく目にするようになった。その頃から言い間違いがひどくなってしまった。

2020

昨年末から幾度とみた不思議な夢をもとに、2月に長瀬智也氏を共同体から呼び出す文句を歌った映像を撮影したところ長瀬氏の事務所退所のニュースをきく。9月、虎と鯨に会うために白浜と太地町を往復した。1222日、木星と土星と冥王星が水瓶座で重なり、それはおおよそ340年ぶり、見方を変えると約500年ぶりのことで、そしてそこに金星や太陽も絡んでくると、なんとなく2000年ぶりの出来事であるように感じる。星の配置に数々の~以来を見てる気がするのは、古文に加えて世界史の授業を担当することになった影響かもしれない。現在、ウェブサイトの制作と3000mSCの障害物をモチーフにしたアクリルパーテーションの制作に勤しんでいるが、それは718日に逆行中の土星が山羊座28°を通過し、そのときの星々のがギロチンあるいはハードルのように見えたことを発端としている。